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清須市のプロフィール

更新日:2015年4月1日

位置・面積等

 清須市は、愛知県西部、尾張平野のほぼ中央に位置し、南部は名古屋市に隣接しています。また、北部は北名古屋市、一宮市及び稲沢市に接し、東部は名古屋市に、西部はあま市に接しています。
 面積は、1,735haで、東西約5.5km、南北約8.0kmの広がりをもち、愛知県の面積の0.34%にあたります。
地形は比較的平坦で、庄内川の下流域にあり、ほとんどの地域が海抜10m未満となっています。また、庄内川のほかには新川、五条川などの河川が流れ、豊かな水辺環境に恵まれ、四季折々の風景を楽しむことができます。
 交通は広域の利便性に恵まれ、JR東海道本線、名鉄名古屋本線・犬山線・津島線及び東海交通事業城北線の鉄道網のほか、名古屋第二環状自動車道、名古屋高速6号清須線、16号一宮線、国道22号、国道302号などの道路網により周辺都市との連携が図られています。

位置図

位置図の画像

歴史・沿革

近代以前

 清須市の区域の歴史ははるか遠く、尾張平野最大の遺跡である朝日貝塚やそれに接する竹村貝塚にみられる弥生時代までさかのぼります。また、室町時代のはじめ守護所下津城の別郭として築かれた清洲城など数多くの歴史資源が各地に残っています。弘治元年(1555年)戦国武将織田信長公が那古野城から清洲城へ入城し、慶長年間には城下町一帯が「関東の巨鎮」と称され文化の中心地として、また尾張の要所として栄えた歴史をもっています。
 さらに、関ヶ原の合戦で勝利を収めた徳川家康公が通ったとされ、名古屋と中山道を結ぶ最も重要な道路と位置づけられていた美濃街道を、吉例街道として、江戸時代には数多くの大名たちが縁起を担いで通り、家康公の命により開設された青物市場とあわせ、宿場町として大いに栄えた歴史も有しています。
 江戸時代初期より宮重大根の栽培が始まり、尾張徳川家にも献上されており、江戸時代中期には全国に知れ渡るところとなりました。またこのころは、庄内川の氾濫により幾度となく水害にあっていた当地において、多くの農民や地元の役人たちの尊い汗と犠牲により天明7年(1787年)に新川が竣工されました。その他、江戸時代に製作され、200年以上の歴史を誇る山車が練り歩く尾張西枇杷島まつりは、郷土の伝統文化として現代に継承されています。

近代以後

 近代に入ると、明治13年(1880年)春日井郡が東西の二郡に分かれて西春日井郡が誕生した後、西春日井郡内の町村で合併が繰り返されてきました。
 明治22年(1889年)下小田井村、小場塚新田村の合併により西枇杷島町が誕生しました。
 明治22年町制施行により清洲町が誕生し、明治39年(1906年)朝田村、一場村と合併した後、昭和18年(1943年)までに大里村や甚目寺町の一部と合併しました。
 明治22年(1889年)下之郷村、落合村が合併し、春日村が誕生し、平成2年(1990年)町制が施行され春日町となりました。
 明治39年(1906年)桃栄町、新川町、寺野村、阿原村が合併し、新川町が誕生しました。
 そして、平成17年7月7日に西枇杷島町、清洲町、新川町が合併して清須市が誕生しました。平成21年10月1日、清須市と春日町が合併し、現在に至っています。

市章

 2色のブルーの輪は、“水”と“未来”を象徴し、河川の流れと調和のとれた発展を表しています。また、水紋が重なり響き合うイメージは、安心・快適・創造のまちづくりが実現される姿を示しています。
 清須市が、豊かな歴史環境や水辺環境を生かした魅力ある環境都市として飛躍する姿を表しています。

市名「清須市」について

 「清須市」になって一年近く、市となり変わっていくことは、これからも続くことと思いますが、誰もが少しとまどいを感じたこととして、住所の表し方の変更がありました。「西春日井郡」に代り「清須市」へ、続く表示も旧町名を西枇杷島は残しましたが、新川・清洲は省き、大字・字など原則消え、以前より短い表記になりました。
 公共施設名の主なものは、町名を冠した形で旧町名が残りましたが、住所の表記だけでは、旧三町のどの辺りのことか一瞬わかりにくくなりました。また、旧清洲町地区では、清須と清洲の使い分けが必要となり、さらに慣れないと「須」の字は意外に書きにくく感じる方もみえます。
 こうしたことは、時間と共に慣れ、克服されていくことでしょうが、どうして「清須」になったのか、また、なぜ「清須」なのかということにつき、改めて整理しておこうと思います。
 新市名決定は、旧三町対等合併ということで出発し、そのため旧三町の名も含めてふさわしい名称を全国公募し、候補を7つにしぼった上、合併協議会の投票で選ばれたものでした。幸い、今回の平成大合併で全国で問題となった、(1)安易な合成地名、(2)平仮名・片仮名地名、(3)近くの大都市に寄りかかったような方角地名、(4)旧国名を独占するような地名、(5)いかに郷土の英雄といえ、日本にはなじまない人名地名、(6)どこにでも通用しそうな瑞祥(ずいしょう)地名のいずれにもならず、これまでの「清洲」とは、同音ながら一字違いの「清須」に決まったのでした。
 元来、地名には地霊が宿るといわれるように、その地域の自然や歴史・伝統といったものを最大限尊重し、分(ぶん)を守って地名は付けるべきという大原則が、ここにはよく生かされ、しかも「洲」でなく「須」となることで他二町にも配慮され、新生「キヨス」を意味することになる賢明な決定だったと思うところです。

 次に、清須の由来・旧3町との関連についてです。
 まず、「清須」とは、伊勢神宮領を記録した14世紀中頃の『神鳳鈔(じんぽうしょう)』に「清須御厨(きよすみくりや)」として出てくる古い地名なのです。その後15世紀末になり「清洲」【文人万里集九(ばんりしゅうく)の『梅花無尽蔵(ばいかむじんぞう)』に「清洲の東」「尾之清洲城」と】が出てきて以来、両用・混用され始め、どちらかというと江戸前半までは須が、半ば以降は洲が多く、明治に入っても須が出てくるものの、明治13年西春日井郡清洲村、地籍図でも清洲村となり、同22年町制施行で清洲町に一本化され、昨年まで116年程経過したのでした。つまり、「清須」は「清洲」より古く長く使われてきた地名なのです。
 この間、1478年、下津(おりづ)から尾張守護所が移されて以来、江戸初までの150年近く、清須は尾張の首府として、政治・経済・交通・文化の中心城下町でありました。
 また、旧枇杷島地内の小田井(おたい)城にも織田一族がおり、清須守護代織田家の三奉行の一家でした。後には信長の配下に入っていきます。
 そして清須は、信長・秀吉・家康の三天下人が共にかかわった拠点として、また彼らの後継城主により、近世的大城郭に整備され、更には彼らの部将達が各地の大名として転出したことで、全国に知られた名称となりました。
 しかし1610年、家康の鶴の一声で名古屋築城・大遷都となりました。当時6・7万の人口を擁し、朝鮮使節の記録に「関東の巨鎮(きょちん)」とまでいわれた清須から、城や武家はもちろん、寺社、町名、町家はては五条橋の擬宝珠(ぎぼし)に至るまですべてが名古屋に移されてしまいました。名古屋に移った商人達には、清須こそが自分達のルーツであり、清須越(きよすごし)の商人という由緒ある格式が生れました。
 この間或いはその後、何らかの理由で武士をやめ、清須を去った人々の中には、出身地名である清須を苗字とする家系が生れ、現在全国の清須さんが集う「全国清須会」まであります。
 江戸時代には、旧新川町阿原に清須三社【御園(みその)・上畠(うわばた)・日吉(ひよし)】の社領がありました。

 清須越後の清須は、新田村及び東海道宮宿(みやのじゅく)(熱田)と中山道垂井(たるい)宿を結ぶ脇往還(わきおうかん)美濃路の宿場町として、再出発しました。旧三町を通るこの街道のことは、西枇・新川では清須街道とも呼ばれてきました。ここから岩倉・小牧・津島・甚目寺・八神(やがみ)への道も分岐し、人・物の往来繁しく町屋が続き、屋根神様・清須花火・枇杷島山車などの祭りや文化も生まれてきました。
 一方、新生名古屋の青物市場として小田井市(おたいいち)(枇杷島市)が、1622年に始まり、1955年名古屋移転まで330年以上も続き、旧三町を含む周辺地域の蔬菜(そさい)類を集荷してきました。そうした都市型農業先進地として、明治29年以来清洲・新川にまたがって、愛知県農事試験場や養鶏試験場が、昭和43年まで置かれていました。
 更に旧三町共に低湿地であり洪水が多く清須越の理由の一つでもありました。1787年庄内川と五条川の間に、新川が開削されたのも洪水防止のためでした。その後も入鹿切(いるかぎれ)、東海集中豪雨の記憶も新しく、水とは切っても切れない地域といえます。川や水の造り出す清らかな砂地・島・洲の地が「キヨス」であり、古くは「清須」が、のちには「清洲」という漢字があてられてきたといえます。
 最後に、須ケ口(別名外町)は清須城下の南の入口をさす地名として今日まで続いてきたし、寺野(てらの)の丹羽家が清洲総庄屋を勤め、1781年には清須代官所が春日(はるひ)地内に置かれ、明治末の『清洲雑誌稿』によれば、清須在城当時は、新川の堀江・寺野、春日の野田町(のだまち)、稲沢の北市場辺りも含めているように、もともとの清須は、これまでの清洲町よりはるかに広い範囲をさしていたのです。
 地名も一つの文化財です。まだまだ他にもありましょうが、これだけでも「清須」という地名が、古くからのこの地域に根ざした、大変由緒ある、しかも全国に知られた歴史的地名であることがわかります。新生「キヨス」の意味も込めて大切にしていきたいと思います。

郷土史家「加藤富久氏」
 この内容は、広報「清須」平成18年5月号から3回に分けて掲載されたものです。市名の由来など、歴史的考察を加え、郷土史家の加藤富久氏にお願いをしたものです。
 略歴:元県立一宮商業高等学校教諭・清須市文化財保護審議会委員など

お問い合わせ

企画部 人事秘書課

清須市役所北館3階 (〒452-8569 清須市須ケ口1238番地)

電話番号:052-400-2911(代表)

ファクシミリ:052-400-2963

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