施設案内

62 清洲城

清洲城

場所 清須市朝日城屋敷1番地1
問い合わせ 清洲城管理事務所 電話052-409-7330
開館時間 午前9時から午後4時30分まで(入館は午後4時15分まで)
※平成23年11月30日(水)までは、午前9時から午後5時まで(入館は午後4時30分まで)

休館日 月曜日〈休日の場合は直後の平日〉、12月29日から31日
ただし、桜の花見期間・清洲城ふるさとまつり期間は開館
※平成23年11月30日(水)までは、「無休」で開館

施設紹介

 郷土の英傑・織田信長公の天下取りの出発点であり、戦国の世を終結させ天下平定を目指す武将が重要拠点としていた清須城。平成元年に現在の場所に『清洲城』として再建整備されました。金色に輝く鯱を屋根にいただく『清洲城天主閣』は、御殿の内部に「黒木書院」「芸能の間」を配した『芸能文化館』、五条川に架かる赤い『大手橋』とともに、清須市のシンボルとなっています。


清洲城天主閣
常設展示
1階プロローグゾーン

1階 プロローグゾーン
・・・清須の成り立ちと歩みを知る
 朝日遺跡に代表される古代から中世、尾張国の首府であった時代を経て、「清須越」から平成17年の清須市誕生、平成21年の春日町合併にいたる清須の歴史をダイジェストでご覧いただきます。



2階戦国の都・清須ゾーン

2階 戦国の都・清須ゾーン
・・・関東の巨鎮・清須の全貌を体感する
 清須城を中心に「関東の巨鎮」と言われた清須城下の都市機能の全貌を知る「清須城と城下町」がテーマの展示です。戦国時代の清須城下の喧騒や信長公麾下の武将たちの暮らしなど清須の全貌を体感していただきます。




3階覇者たちのルーツ・清須ゾーン

3階 覇者たちのルーツ・清須ゾーン
・・・清須が育んだ先人達の偉業にふれる
 信長公の偉業を中心に、秀吉・家康をはじめ信長公麾下の武将たちと清須との深い関わりあいを紹介し、「覇者たちのルーツ・清須」が歴史に果たした役割、功績を検証します。



4階天下一吉例ゾーン

4階 天下一吉例ゾーン
・・・清須の天主で浩然の気を養う
 最上階の4階では、「吉例の地・清須の天主に立ち、浩然の気を養う」をコンセプトに、先人たちが夢をかなえていった清須の眺望を楽しんでいただきます。





きよすの表記について
 「きよす」の表記は、文献その他歴史的にも「清須」「清洲」の両方の記載が見られます。古くは「清須」の表記が多く後に「清洲」の表記が多くなっています。そこで、今回の展示リニューアルに際しては、慶長15年(1610)の『清須越』を境目に清須越以前を「清須」、「清須城」と表記し、それ以降の宿名、町名を「清洲」と表記しています。また、現在の施設固有の名称としては「清洲城」として表記しております。

清洲城への道
〇交通アクセス
名鉄         名古屋本線新清洲駅から徒歩15分
JR          東海道本線清洲駅から徒歩15分
城北線        星の宮駅から徒歩20分
東名阪自動車道  清洲東インターから車5分
名古屋高速道路  清須出口から車5分
※無料駐車場あり。


清洲城天主閣入場料
区分
個人
団体
大人
300円
250円
小人
150円
100円
小人は小中学生。団体は、30名以上。幼児は無料。

アクセスマップ
○名鉄電車(名古屋本線新清洲駅より徒歩15分)
名鉄・新清洲駅からの道のり

○東名阪自動車道(清洲東インターより車5分)

甚目寺方面からの道のり

○JR東海(東海道線清洲駅より徒歩15分)

JR清洲駅からの道のり


尾張の首府が甦る【歴史織りなす 清須のお城】
清洲城  室町時代応永12年(1405)、尾張国の守護職であった斯波義重が、守護所であった下津城(稲沢市)の別郭として建てられたのが清須城の始まりといわれています。
 文明8年(1476)戦乱により下津城が焼失した後の、文明10年(1478)守護所が清須に移転することで、清須が尾張国の中心地となります。京や鎌倉に連絡する往還と伊勢街道が合流する交通の要衝でもあり、尾張の政治・経済・司法の中心地として繁栄を迎えます。
 弘治元年(1555)に織田信長公が那古野城(なごやじょう)から入城、尾張を統一掌握したころの清須城の基本構造は、守護の館と同じだったと考えられています。永禄3年(1560)の桶狭間の戦いに勝利した信長公は、ここ清須から天下統一への第一歩を踏み出しました。
 天下統一へ突き進む途上、本能寺の変で斃(たお)れた信長公の跡目を決める清須会議の後、城主となった次男、信雄によって改修された清須城の城郭は、天守を備え東西1.6km、南北2.8kmにも及ぶ巨大な郭域の中に城下町のあらゆる機能を備えた城塞都市として過去最大の規模に達します。
 その後城主は、織田家から豊臣秀次(関白)、福島正則(秀吉子飼の大名)と移り、天下分け目の関ヶ原の戦いでは、東軍の最前線の城として重要な軍事拠点となります。関ヶ原以後、城の主は松平忠吉(家康四男)、徳川義直(家康九男)と変遷しますが、この頃の清須城下は、人口6万人を数える賑わいを見せ、朝鮮通信使の記録にも「関東の巨鎮」と称され、また、清須城は「天下の名城」と讃えられました。
 慶長15年(1610)徳川家康は、清須城廃城と名古屋城築城を命じ、町の建物、町の機能全てが移転する「清須越」が行われました。これにより尾張の政治・経済・司法の中心は清須から名古屋へ移り、清須城とともにその城下町は歴史から姿を消し去りました。なお、名古屋城築城に際し取壊した清須城の資材が再利用され、特に名古屋城御深井丸(おふけまる)の西北櫓は、「清須(洲)櫓」とも呼ばれ清須城天守の古材でつくられたといわれます。
 平成元年(1989)、四百年近くの年月を経て歴史ある城が「清洲城」として天主閣をはじめ、芸能文化館、清洲城広場などをしたがえ地域のシンボル、平成のお城として甦りました。